何も起きなくても、後悔する必要はない
近所の寺に散歩に来てみた。
現在は千葉県松戸市の北小金と言う駅に住んでいる。ここは元々宿場町だったらしく、その面影が其処此処に感じられるいい街だ。
ここには縁もゆかりもない。仕事の都合でもないし、知り合いもいない。
彼女と一緒に住むために、お互い移り住んできた街だ。
人と一緒に住むと、相手の表の顔も裏の顔も全部を見ることになる。良いことも悪い事もたくさんある。
僕は、仕事の時の顔や、友達といる時の顔、家にいる時の顔で、特に使い分けてはいない。使い分けることができない。
常に素のままなので、もう少し切り替えて仕事をしてと注意される事もある。
常に素である事は、常に裏の顔を出してるようなものなのかもしれない。
僕は人が表の顔と裏の顔をそんなにも使い分けているなんて知らなかった。おそらく意識的にではないんだろうけど、みんな使い分けることができるみたいだ。
だからなんだと言われれば、特に何も言いたい事はないのかもしれない。
人それぞれ違いがあって不思議だなぁくらい。
寺に来たからなのか、なんだか物思いに耽るというか、どうも青空に溶けたくなるというか、透明になりたくなるというか、無になりたくなるというか、からっぽになりたくなるというか
そんなような感じだ。
何かを積み重ねて生きていける人を見て、純粋にすごいなと尊敬の念が浮かんでくる。
何気ない時間だったけど、綺麗な青空と緑が見れて
自分の足で歩けて、自分の目でこの景色が見れて良かったな、と後になって思った。
目が見えなくなったら、どんな風に人生を歩んでいくのだろうか、などと考えていた。
散文的な文の日になってしまった。
今日も自然を楽しもう